句集 迷走する空

句集 迷走する空

四六判上製カバー装
発行日:2021/10/8
本文222頁
装幀=高林昭太
定価:2700円+税
ISBN978-4-88032-468-5

原 満三寿著

原 満三寿(はら・まさじ)プロフィール

1940年、北海道夕張生まれ。埼玉県川口市在住。句集・詩集・論考ほか著作多数 。
【俳句関係】「海程」「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て、無所属。
  句集=『日本塵』(青娥書房)
     『流体めぐり』(深夜叢書社、以下同)『ひとりのデュオ』
     『いちまいの皮膚のいろはに』『風の象』『風の図譜』(第12回詩歌文学賞)
     第7句集『齟齬』
  俳論=『いまどきの俳句』(沖積舎)
【詩関係】「あいなめ」(第二次)「騒」を経て、無所属。
  詩集=『魚族の前に』(蒼龍社)
     『かわたれの彼は誰』(青娥書房、右も同)『海馬村巡礼譚』
     『臭人臭木』(思潮社、以下同)『タンの譚の舌の嘆の潭』『水の穴』
     『白骨を生きる』(深夜叢書社)
  未刊詩集=『続・海馬村巡礼譚』『四季の感情』
【金子光晴著作関係】
  評伝=『評伝 金子光晴』(北溟社、第2回山本健吉文学賞)
  書誌=『金子光晴』(日外アソシエーツ)
  編著=『新潮文学アルバム45 金子光晴』(新潮社)
  資料=「原満三寿蒐集 金子光晴コレクション」(神奈川近代文学館蔵)

オビ(表)

鳥かえる古代緑地へいざかえる
危機の種をいくつも抱えながら、多様な生命がさんざめく「青地球」│その混沌のなかで明滅する〈いのち〉の諸相を剔抉する瞠目の第8句集。

オビ(裏)

 この先、地球はどうなるのか、生き物たちはどうなるのか。そんな思いに駆られ、「迷走する空」と題した所以です。
 それでわたしに何ができるかといえば、俳句面した俳句や無精卵まがいの俳句はできませんので、迷走するものに向けての俳諧を、と愚考しているのですが、枯蟷螂のごとく妖剣戯作丸をふりかざすばかり。困ったことです。        (「あとがき」より)

解 説(抄)

「瞑想する空への誘い」                       齋藤愼爾
 句集『迷走する空』は、「俳乞食の空」、「いのちたちの空」、「絶滅危惧種の空」「明日の空へ」の四章から構成されている。
  莫逆の俳乞食が秘す青地球
  俳乞食 おのれの百鬼を夜行さす
  微雨に花 他界あそびは秘すが花
  (中略)
 冒頭に「俳乞食」が出て来る。この話を説明するには、原満三寿氏の初期のエッセイを紹介するのがいいのではないかと考え、以下の文章を引用することにする。因みにこの文章「人でなし俳諧のすすめ」は今から三十八年前、俳誌「現代俳句」(一九八五年刊)に掲載され、私が原氏に私淑するきっかけとなったものである。
「俳諧の〈俳〉という字は、人と、そむく意と音を示す非(ヒ・ハイ)とからなる(略)。俳の字は〈人に非ず〉と記すように、非人を意味していた。非人、人非人、人でなしの意なのである。柳田国男の〈常人ならざる漂泊者〉であり、折口信夫のいう〈まれびと〉でもあったろう。(略)惟然坊のように、市中に身を隠す(陸沈)ことによって、新しい徘徊の姿勢を露わにした者もいる。今日にいう〈定住漂泊〉は、こうした徘徊者の非人の姿を現代に再生するものでなければ、伝統に学んで現代にアウフヘーベンすることにはけっしてならないであろう」
 俳乞食は陸沈することに安住することなく、「おのれの百鬼を夜行さす」、つまり百鬼夜行する行動に躍り出た非人たる徘徊者への変貌を意味する。

  「門」ひらく合歓の木陰で無字の僧
 超難解句の登場である。「門」とは何か、そして「無字の僧」とは? 門で想起するのは建造物の出入り口、漱石の小説『門』やカフカの短篇『掟の門』だが、掲句との関連が不明、悶々とあせるだけである。池内紀編訳の岩波文庫『カフカ短篇集』(一九八七年)の巻頭三頁余を占めるこの小説。掟の門の前に門番が立っている。田舎から出てきた男が門番に入れてくれと頼むが、門番は「今はだめだ」と断わる。男は「今はだめだとしても、あとでならいいのか」と訊ねる。「たぶんな、とにかく今はだめだ」と門番はそっけない。
 男は門の脇にすわって待ちつづけた。思いついて門番にたずさえてきた品を贈り物にするが、入れてもらえない。永い歳月が過ぎ、次第に男は衰えて、いのちが尽きかけていた。意識の薄れゆく男は最後の質問をする。「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」
 薄れてゆく男の意識を呼び戻すかのように門番はどなった。「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」
 このカフカの不条理な短篇が掲句と全く何のかかわりもないとは思えないので、ひとまず書き添えておく。なお〈無字〉とは仏語で、「真理は文字に表せないということ」と注釈にある。そういわれても禅問答の如きもので、今の私には要領を得ない。  既成俳句のパロディ、換骨奪胎と思われる句を二、三指摘しておこう。「俳人に鮟鱇いまだ〈ぶちきらる〉」は、加藤楸邨の「鮟鱇の骨まで凍ててぶち切らる」。鮟鱇の句では「鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな」(久保田万太郎)の佳吟がある。
「一神教の神あつまって闇夜汁」の一神教は唯一つの神のみを絶対者として信仰する。ここではユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神たちが、暗闇の中で、各自が秘密に持ち寄った材料を同じ鍋で煮て、何が入っているかわからないままに楽しんでいる景を描く。「微雨に花 他界あそびは秘すが花」の「秘すが花」は世阿弥の『風姿花伝』にある言葉。「同行を南風そそのかす〈須可捨焉乎(すてつちまおか)〉」は、竹下しづの女の「短夜の乳(ち)ぜり泣く児を須可捨焉乎」に由来。
(中略)
  鳥かえる古代緑地へいざかえる  満三寿
「古代緑地」は、もしかしたら詩人吉田一穂の言葉を指しているのでしょうか。三十年ほど前に、私は真壁仁氏の『吉田一穂論』を出版しております。吉田は「生物本能の根源は生地指向の回帰性である。感性的傾向は種保存の純血性である」という結論のために、彼はある時期に地軸が三十度傾いて、かつて草木の緑が地を蔽い、鳥獣の楽土であった地帯が、氷雪と凍土に化したという仮説と、候鳥の群れが、失われた楽土に帰還するような、生地指向の例証とを提示している。
 真壁仁さんは、吉田一穂宅でのことを語ってくれた。吉田一穂は地球儀をまわしながら語ったらしい。「あるとき地軸が三十度傾いたんだ。あるとき、というのは仮説だが、仮説が君たいせつなんだ。仮説がなければ実証もない。実証は科学者がやればいい。詩人は仮説をもたなければならん。創造力がなければそれは不可能だがね。ところが地軸が三十度傾いたために、温帯が極になってしまった。緑地が氷原に変ったのだ。白鳥は……かつての緑地、今はツンドラになった故郷に還る。あの古代緑地に回帰する本能。かれらの帰巣のための飛翔や泳走に方向感覚のあやまりはない。磁気のように正確な方向軸を自ら持たぬ奴は詩が書けない」――真壁仁氏、吉田一穂氏の顔が、いつしか原満三寿氏の温顔と重なった。その背後からカフカが「色即是空」と唱えながら透明な浮遊体になり、掟の門をするりとくぐり抜けて、『迷走する空』へと向かう姿が幻視されたのだった。

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